「仕事中毒」ほど子育てから学んでほしい!

仕事中心の生活に没頭し、成果重視の価値観に縛られていた・・・。
兵庫県立大学の竹端寛教授(50)は、小学3年生の娘と過ごす日々のなかでそのような思いに至ったと、自身の著書『能力主義をケアでほぐす』(晶文社)で述べています。
彼は、能力主義には「画一性」「基準化」「順位付け」といった側面があり、それらが子どもの成長環境にも影響を及ぼしていると語ります。
同じく小学3年の娘を育てている記者(44)が、竹端教授に話を聞きました。
(※2025年5月24日 朝日新聞の記事を参考に要約しています。)

能力主義の影にあった「当たり前」の価値は「子ども」の価値ではない!

「仕事優先」で「成果第一主義」だったと、自著で振り返っています。
娘が誕生する以前は、絶えず仕事に追われる日々を過ごしていました。
単著や共著の執筆に没頭し、論文の執筆も継続。
講演や研修の依頼は一度も断ることなく、スケジュールは常に埋まっていたそうです。
ところが2017年、42歳で娘が生まれたことを機に、生活は大きく変化しました。
それ以降は、最低限の業務に絞り、家事と育児に注力するようになったといいます。
しかし、X(旧Twitter)で同業者が新刊を出すのを見るたびに、自分だけが取り残されていくような感覚に襲われていました。
そんなある日、1日に5回も洗濯をし、食事を用意し、夜中に子どもをあやしていたにもかかわらず、「今日も何もできなかった」と無意識に口にしたところ、妻からこう言われたそうです。
「あなた、これだけたくさんやってるじゃない」と。
その言葉に、自身が「社会的に評価される成果」だけを「達成」と見なしていたことに気づきました。
これは、深く内面化された能力主義の影響だと実感したのです。
現代社会では、自己管理能力や時間管理スキルといった「見える力」が高く評価されがちです。
学歴への信仰も、その一例です。受験ではこうした能力が試され、合格は能力の証明とされます。
一方、育児という行為は、予測できない状況に柔軟に対応しながら過ごすものです。
思い通りにいかない現実に向き合い、戸惑いを感じることもあります。
その感情の正体は、計画通りに物事を進めることに慣れすぎてしまった身体が、能力主義に染まっていた証でもあるのです。

他者との比較は「そのままの価値」「その子の価値」を見失う

ある日、公園で娘がブランコに乗っているのを押していたときのことです。
ふと、「自分は今、何も生産的なことをしていないのでは」と不安になり、無意識のうちにスマートフォンで仕事のメールを開いてしまいました。
現代社会では、「そのままでいい」と認められる場面が少なく、「認められないことへの不安」が常に背後にあります。
そうした不安があると、「能力で評価されること」への依存、つまり「規格化」「標準化」「序列化」といった能力主義に寄りかかりやすくなるのです。
しかし、能力主義はすでに子どもの世界にも深く入り込んでいます。
気がつけば、子どもたちも「他人との比較という檻」に閉じ込められてしまっているのです。
昨年、小学2年だった娘が「算数できへん、私アホや」と言いながら、自分の頭を軽く叩いていました。
その様子に思わず「そんなことないよ!」と声をかけました。
けれど娘は「他の子は100点だったけど、私は直しがいっぱいあった」と話していたのです。
その瞬間、娘がすでに「順位づけの世界」に足を踏み入れていることを痛感しました。
不安と隣り合わせの能力主義に、「ケア」でどう向き合えるのでしょうか?
子育てや介護といった「ケア」は、予定通りにいかない場面が多くあります。
それでも娘と向き合う時間の中で、私自身が「そのままの存在でいい」と感じさせてもらえていることに気づきました。
私はきっと、娘を通じて、長年内面化していた「成果を求める価値観」や「能力こそが全て」という思い込みから解放されつつあるのだと思います。

社会から見えない「支え」が映す能力主義の限界、偏るケア労働

能力主義から解き放たれてから、気づかれたことはあるのでしょうか。
能力主義の枠組みの中にも、実は多くの「ケア」が潜んでいるということに気づきました。
たとえば受験勉強や職場での成果といった活動も、背景には食事を作ってもらうことや、寝具の世話をしてもらうことなど、さまざまな支えがあるからこそ成り立っているのです。
つまり、成果として表に出る能力の多くは、周囲からのケアに依存している部分が少なくないのです。
そしてそのケアの役割を多く担っているのは、現実的には女性である場合が大半です。
この構造を見つめることで、ケア労働が無意識のうちに女性に偏って押しつけられている実態が浮かび上がります。
能力主義や働くことにおいて、男性中心の文化が色濃く反映されていると感じます。
男性が築き上げた社会構造が、そのまま能力主義や成果主義を重んじる風土を強化してきたのではないでしょうか。
ですが、私はそのような社会に対して「息苦しさ」を感じています。
能力主義の価値観は今後も続くのでしょうか?
確かに、高度経済成長期のような時代では、「空気を読む」「決まった型に従う」といった能力が重視されていました。
それが、経済的な発展を支える要素だったのかもしれません。
しかし同時に、それは一人ひとりの個性や創造性を抑え込むことにもつながります。
バブル崩壊以降の「失われた30年」を振り返ると、規格化・標準化・序列化といった発想では、新しい価値や発明は生まれにくいと感じます。
今こそ、能力主義に偏った社会から抜け出す転換期にあるのではないでしょうか。