何でも母親に押し付けないで!社会全体で子育てを

青森県立中央病院で長年にわたり新生児医療に従事してきた小児科医の網塚貴介さんは、生まれたばかりの赤ちゃんを現場で支えてきました。
現在は、新生児集中治療室(NICU)を退院した後の子どもやそのご家族のサポートを行う成育科部長として活動しています。
小児医療の最前線に立ってきた網塚さんに、少子化問題への取り組みにおける課題についてお話を伺いました。
(※2025年3月17日 朝日新聞の記事を参考に要約しています。)

「子どもは家庭の責任」から「社会で支える」へ・・・支援が届かぬ現実と課題

現在の少子化対策において、私が最も疑問を抱いているのは、子育て中の家庭が直面する具体的な困難に対し、ほとんど有効な対応策が示されていない点です。
たとえば、早産で体が小さく、発達に遅れのある子どもが保育園から3歳前後で退園を求められる事例があります。
これは、国が定めた保育士1人あたりの配置基準が年齢とともに厳しくなるため、「対応が難しい」と判断されるからです。
しかし、その後の受け入れ先を確保する制度は整っていません。
また、青森県では、特別支援学校に通う身体障害児や医療的ケアが必要な子どもを、保護者が毎日遠距離通学させている現状があります。
弘前市にある県立の養護学校は市街地から離れた山間部に位置しており、冬の大雪の中でも、保護者が片道1時間をかけて送迎を続けているのです。
このような日々の送迎に公的な支援がなければ、保護者は仕事との両立が困難になり、離職せざるを得ない状況に追い込まれます。
重度障害児に関わる痛ましい事件が繰り返し報道されるのも、子どもに関する全ての責任を家庭だけに負わせる社会構造の弊害ではないでしょうか。

子育て支援と政策の矛盾、問われる価値観と母親への負担

近ごろ、施策や制度には政治を担う人々の価値観が強く反映されていると感じています。
2023年に話題となった、埼玉県で検討された「子どもだけの留守番を禁じる」という条例案は、その象徴的な一例と言えるでしょう。
子どもの居場所が十分に整備されていないにもかかわらず、親に対して過剰な責任を課すような発想が見られます。
「子どもを最優先に考えるべき」と唱えながらも、実際にはその負担をすべて保護者、特に家庭に押しつける社会構造が続いており、子どもを巡る支援策が後回しにされているのが現状です。
これが、少子化対策を掲げているとする現在の日本社会の実態なのです。
そして、このような制度の影響を最も大きく受けているのは母親たちです。障害や持病を抱える子どものケアを理由に、やむなく職を手放すことになった母親を、私は数多く見てきました。

子育てがリスクであり続ける社会-親への一方的な負担を見直す時

政治を担う人々は、母親が困難な就職活動の末にようやく築いたキャリアを手放すことについて、まるで子どもの習いごとを諦める程度のことだと軽視しているのではないかと感じることがあります。
「自分の子どもなのだから親が責任を負うのは当然だ」といった考えが根底にあるように思われます。
もちろん、障害児への支援を手厚くすれば出生率が上がると主張したいわけではありません。
しかし、健康に育った子どもであっても、不登校などの状況になれば、保護者が仕事を続けられなくなる例は少なくありません。
子育てにおいて「困難」は、健常か障害があるかにかかわらず、誰にでも起こりうるのです。
家庭に全てを委ねる制度と価値観が続く限り、子育ては人生における大きなリスクであり続けます。
そうした現実に向き合うことなく、「少子化対策に取り組んでいます。子どもをもっと産みましょう」と声高に叫ぶ姿勢には、違和感を覚えずにはいられません。

「子育ては社会全体で」へ転換を!出生数の減少が示す課題

現在進められている少子化対策は、国や社会の要請に基づいたものであり、背景には人口減少による労働力不足や社会保障制度の維持困難といった事情があります。
要するに、「子どもが少なくなると困るから増やしたい」という発想が根底にあるのです。そして、その期待はしばしば健常児に向けられています。
しかし、仮に出生数が増加すれば、当然ながら医療的ケアが必要な子どもや障害を持つ子どもも増えることになります。
そのため、健常児への子育て支援と障害児支援は、両輪として同等に扱うべきです。
一筋の希望として注目されるのが、2021年に施行された「医療的ケア児支援法」です。
この法律では、医療的ケアが必要な子どもやその家族に対する支援について、国や地方自治体の責任が明確にされており、その中には「家族の離職を防ぐこと」も基本方針として盛り込まれています。
このまま、子どもに関わるすべての負担を家庭に押しつけ、出生数の減少と地域の衰退を受け入れていくのか。
それとも、社会全体で子育てを支える価値観へと方向転換を図るのか。今、私たちは大きな選択を突きつけられているのではないでしょうか。